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生まれ育った長野県諏訪市はスケートのメッカ。子どもの頃からスケートにのめり込み、スピードスケート選手として国体の決勝にも出た。ただ、東海大学短期大学部周辺にはインドアのスケート施設しかなく、スキー部を...

「わが友わが母校」は休みました。

運動は苦手。でも、学生生活では運動にチャレンジしたい。こんな私が東京大学に入学後選んだのは競技ダンスだった。

父が音楽好きで、兄にトロンボーンを買っていたこともあり、私も父にフルートが欲しいと頼んだ。高校入学とともにフルートを手にすることができ、練習を積んでいったのだが、そのころからバロック音楽に徐々に興味を...

中央大学附属高校から中央大学文学部文学科国文学専攻に進んだ。自動車部と迷ったが、熱心な勧誘を受けたアメリカンフットボール部「ラクーンズ」に入部した。背番号80番を付けた荒井清壽(きよひさ...

建築家になりたくて1988年に日本大学工学部へ入学した。特に関心があったのが、古い建物を活用しながら保存する方法。文化財保存がテーマの研究室に入ったが、担当の教授とはしょっちゅうけんかしていた。

東京大学の入学式翌日に、入部届を持って自動車部を訪ねた。根っからの車好きで、高校卒業後すぐ運転免許を取得。大学には車で通おうと決めていた。

1978年、早稲田大学教育学部理学科に入学したことで雑草根性を磨かれた。地学専修として、同専攻の仲間とともに各地に出向き、巡検(実地調査)に行った。今でもよく覚えているのは、3年の夏に...

1977年に中央大学へ入学した際に「4年間しかないからこそ一つのことを極めよう」と部活を選んでいた。そのとき、当時は大学非公認ながらも活発な活動を行っていたアメリカンフットボール部に惹かれて入部した。...

1975年に入学した横浜国立大学は、程ヶ谷カントリー倶楽部の跡地に移転したばかり。その頃は緑もまだ幼木で白亜の建物が目立つなど紡績工場の雰囲気を醸し出していた。約40年が経過した今ではキャンパスはすっ...

多感な10代に何かを表現したかった志の高い仲間たちとの出会いをくれ、起業家を目指すきっかけになったのがわが友であり、わが母校かなと思う。

母校・一橋大学のラグビー部に伝わるチームプレーの精神には、液化石油ガス(LPG)の販売という公益性が高い事業を担うわが社の気風にも通じるものがある。 ... わが社の...

少しでも母校に恩返しできればと、数年前からはOB会長を仰せつかっている。

幼い頃、叔父のモーターボートに乗った経験からマリンスポーツに「かっこよさ」を感じていた。近畿大学(大阪府東大阪市)に入学した1981年、迷わず体育会ヨット部に入部した。 ...

新しもの好きで、人と違うことをする性格は、小学生時代の恩師で絵本作家として有名な灰谷健次郎先生のもとで培った。灰谷先生の授業はユニーク。集中力がない生徒が教室を抜け出すと、クラス全員で後を追いかけ、芦...

中高一貫校の麻布学園での6年間は濃密な学生生活だった。自主性や個性を重んじる自由な校風で、極端に言えば「大学に行きたければ努力しなさい。努力しないのは自分の責任」という雰囲気だったと思う。 &...

1977年に卒業した修猷館高校時代は無線部に所属していた。ラジオ作りが趣味だった友人から無線について教えてもらったことをきっかけに、中学で免許を取った。通信相手とはカードを交換していたが、海外の人はカ...

1978年に名古屋工業大学工学部に入学した。中でも思い出深いのが下宿生活だ。同じ大学教員の道に進んだ名工大教授の曽我哲夫君、静岡大学教授の野口敏彦君はマージャン仲間で、朝までなんでもないことを語り合っ...

春休みと夏休みは先生の母校・天理大学での地獄の合宿。

学生時代は、勉学よりサークル活動に明け暮れた日々だった。1975年に早稲田大学に入学し、先輩の熱心な勧誘で半ば“入部させられた”のが邦文速記研究会だ。速記は今でも国会の議事録作成に使われているがレコー...

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