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記事検索結果
515件中、9ページ目 161〜180件を表示しています。 (検索にかかった時間:0.007秒)
高校ではスキー部だったが、1978年に幾徳工業大学(現神奈川工科大学)機械工学科に入学して、半年後にはラグビー部に入ることになった。一緒に住んでいた浅草出身の木村淳一君からある日の昼休...
世の中には不思議な縁というものが、間違いなく存在する。私は大学時代の先輩との関係で、これを実体験した。大学に入学した1964年は東京オリンピックが開催された年であり、私は学生時代の4年間をヨット部の活...
学生紛争まっただ中の1969年、新潟大学工学部に入学し、大学寮の「六華寮」に入寮した。寮には1年生から、すでに8年もいる“長老”までいた。入学後1年半は大学が封鎖されてしまい、アルバイトに明け暮れる日...
自分のベースを作ってくれた存在として、今でも強烈に思い出すのが年に1回、秋に開催される高校の行事「強行遠足」。学校がある甲府から長野県小諸市まで105キロメートルを一昼夜かけて歩くというもので、1―3...
1975年、早稲田大学理工学部3年生の時に本村貢先生のゼミの門をたたいた。工学的な分析に興味があったのと本村先生はバイタリティーがあり現実的な考えで面倒見が良いと評判だった。本村研究室はモノづくりの基...
4人兄弟の三男として東京で生まれた。両親が教育熱心で、兄たちの受験勉強の苦労を見て「俺は嫌だ」と反発、1977年、16歳の時に米オハイオ州のアドミラルキングハイスクールに交換留学生として入学した。卒業...
「大学に入ったら何をやりたい?」と聞かれると「テニス!」と答えていた通り、東京理科大学時代はテニスにどっぷりはまった。
福岡から上京して1991年に早稲田大学に入学し、「母校の先輩がいる」との理由で英語会(ESS)に入った。... 年に1回は“ママ友”として近況を確かめ合っている。
島根県立松江高等学校(現・島根県立松江北高等学校)は1学年700人に近いマンモス校だった。進学校だがガリ勉をやった記憶がなく、のびのびと学校生活を送ったように思う。写真は確か高校3年生...
子どものころから自分でモノをつくるのが好きで、大学受験後、合格発表までの間に模型ヘリコプターを作った。今で言う「ドローン」をだいぶ先取りした。ちゃんと飛んだが、横風にあおられ墜落。
日本大学生産工学部管理工学科2年の1970年に人間工学の本林・近藤研究室の門をたたいた。卒業論文のテーマは「作業環境の温度と湿度が人体に及ぼす影響」。当時は公害問題があり、家業が町工場だった影響もあっ...
故郷・和歌山県内の高校から大阪府立大学工学部に進んだのが1976年。受験疲れで勉強に身が入らなくなり、一時はマージャンにはまってしまったが、2回生のころに心を入れ替えた。電気工学科で同期の松川哲也君の...
郷里・新潟の工業高校を卒業し、東京電機大学に入学したのは1968年のこと。大学の学生寮「武蔵野学生寮」に入り、東京での生活を始めた。寮の学生は北は北海道から南は沖縄まで全国各地から集まっていた。
【インターネットイニシアティブ執行役員・山井美和氏】 熊本電波工業高等専門学校(現熊本高等専門学校)は、電気工学や電子工学を学び、卒業までの5年間で無線の専門技術者を...
父が神戸製鋼所で油圧ショベルなどの設計を担当していたこともあり、もともと機械に興味があった。その思いから1973年(昭48)に大阪大学基礎工学部機械工学科に入学した。学生時代はしっかり...
高校時代にやっていたハンドボールを大学でも続けようと思い、ハンドボール同好会(早苗クラブ)に入った。同好会といっても練習はまじめにやった。平日の週2―3回は東京・代々木のテニ...
中学で始めたソフトテニスを1970年に入学した戸山高校でも続けた。体格差があっても打球の打ち方、コースなど戦略で補えるのがソフトテニスの面白さだ。部活の顧問の芝山文雄先生はとても熱心な方で、フォーム、...